君 花

第1章/後ろ姿
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少し前を行く男の背中を見ながら、私は考えていた。

ほんの少し前まで、あの腕の中にいたんだ。


男が手にしているキーホルダーの鍵の束が重なり合う音が、人気のない廊下に響いている。

あの指が、ついさっきまで私の体の体温を感じていたんだ。


数十分前の記憶をさかのぼれば、

彼が私にどんなことをしたのか、

彼が私にどんな言葉をささやいたのか、

鮮明に思い出すことが出来る。


出口専用のエレベーターの前を通る時、

「階段で行こっか」

男がそう言って笑って振り返る。

人なつっこそうな笑顔。

でも、それは決して私に対しての好意の現れじゃないのを、私は知っている。

そして、

きっと彼も、表情すら変えないで自分を見ている初対面の少女が、自分に対して好意のカケラも持っていないことを感じているはずだ。


彼の鼻歌がコンクリの壁の階段に反響して、四方から私の体にまとわりついてきた。


さっきまで、抱きしめあっていたはずの私の手と、彼の手と、
ほんのわずかな距離しか離れていないのに、二度と触れ合う気配すら感じさせない。

あんなに人と肌を合わせたのは、初めてのこと。

でも私は、その繋がりから何も生まれないことを知っている。

私の頭の中では、ついさっきまでの出来事が、遠い過去のことになりつつあった。

こんなに近くにいる彼の名前すら、私は知ろうともしていなかった。


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