川合稔



川合稔(かわいみのる 1942年12月9日生)
 [レーシングドライバー]


 東京都出身。1965年にレースデビュー。両親に反対されたため、陸送のアルバイトをしながらレースに出場していた。日本大学芸術学部演劇学科を中退後、トヨタ・モータースポーツ・クラブ (TMSC) の事務局で働き、1966年にトヨタ自動車販売(トヨタ自販)のワークスドライバーとして契約。S800や1600GTなどに乗ってツーリングカーレースで活躍する。

 下積みの期間が長かったが、1968年11月の第1回ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース(日本Can-Am)では、プロトタイプのトヨタ・7に乗るチャンスを得て、決勝は9位完走。この好走が評価され、1969年にはトヨタ自動車工業(トヨタ自工)のワークスチーム「チーム・トヨタ」に昇格する。当時のトヨタでは自販ワークスが2軍、自工ワークスが1軍扱いとされ、川合は2月のテスト中に事故死した福澤幸雄に代わる新戦力として期待された。

 トヨタ・7に乗り1969年4月の鈴鹿500kmレースで優勝、10月の日本GPでは序盤トップを走行し、トヨタ勢最上位の3位を獲得。11月の第2回ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレースで優勝し、チーム・トヨタのエースドライバーの地位を得る。

 プライベートでは丸善石油のCM「Oh!モーレツ」の流行語で一世を風靡した小川ローザと交際し、1970年2月26日に結婚。小川は前年8月のNETスピードカップのイメージガールに起用され、そのレースで2位入賞した川合を表彰台で祝福していた。元俳優志望の川合とファッションモデルの小川は美男美女のカップルとして話題になり、夫婦揃ってトヨタ・コロナのポスターに登場した。

 1970年は排気ガス公害が社会問題となったことを受けて、日本GPの開催中止が決定した。トヨタはアメリカのCan-Amシリーズ参戦に切り替えてトヨタ・7ターボ(5リッター800馬力)の開発テストを続け、川合は7月26日の富士1000kmレースの前座ではデモランを行った。しかし翌8月26日、鈴鹿サーキットで行われたテスト中にデグナー・カーブをほぼ全開で通過した後のヘアピン手前の110Rコーナーでコースアウトし、コースサイドの溝に激突して宙を舞い落下。その衝撃で川合はマシンから投げ出され、病院に搬送されたが頭蓋底・頚椎骨折、両大腿部複雑骨折で死亡した。当日午前中に本社役員会でCan-Am参戦が了承されたところだったが、この死亡事故により計画は白紙撤回された。

 事故地点はヘアピンに向けて減速しながら曲がる右カーブだったが、急ブレーキをかけた跡のブラックマークがコースサイドまでまっすぐに伸びていた。マシントラブルでスロットルが戻らず、減速できないまま時速200km以上のスピードでコースアウトしたのではないかと見られている。セーフティゾーンがもしあったなら、スピードが吸収されて単なるクラッシュで済んでいたとも言われた。トヨタ・7ターボに関して、当時チーム・トヨタで川合と共に活躍していた高橋晴邦は、「あのまま開発が進んでいたら、次に死ぬのは自分だったかもしれない」「あの時代には、早すぎたマシンだった」と語っている。

 トヨタは、契約ドライバーの福沢幸雄(1969年2月事故死)と川合を立て続けに失い社会批判を浴び、1971年、新たにTMSC-Rというレース活動専門の別会社を設立し、この会社を介して選手と契約を交わす形を採った。また、トヨタ社内のレーシングカー開発部門も大幅縮小され、以後しばらく市販車をベースにチューニングしてのレース活動が中心になった。

 結婚からわずか半年後に夫が事故死するという悲劇に見舞われた小川は芸能活動を休止。1973年、映画に出演し復帰はしたものの、同年に芸能界から引退した。

 1970年8月26日死去(享年27)


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