坂東三津五郎



坂東三津五郎[8代目](ばんどうみつごろう 本名:守田俊郎 1906年10月19日生)
 [俳優/歌舞伎役者]


 東京生まれ。生後すぐ、七代目坂東三津五郎の養子に入る。1913年、市村座『奴凧』で三代目坂東八十助を襲名し初舞台、1928年に六代目坂東蓑助となる。若くして近代劇の創始者の一人である小山内薫に傾倒し、1932年に劇団新劇場を設立。

 1934年、松竹を脱退して東宝に入り、第1次東宝劇団を結成するが、このことが原因で養父・七代目三津五郎からは勘当同然の扱いをされ、関西歌舞伎に籍を置いた。1961年、東京松竹に復帰。均整のとれたキメ細かな芸風で、舞踊にも定評があった。1962年、八代目坂東三津五郎を襲名。1973年に重要無形文化財保持者の指定を受けた。

 1975年1月16日、京都南座の初春興行『お吟さま』に出演中、好物のトラフグの肝による中毒で急死。京都市の割烹「政」で夕食を終えた坂東は宿泊先のホテルで眠りについたが、午前3時頃に苦しみ始め、隣に寝ていた妻が異変に気付き救急車を呼んで病院に運ばれたが、フグ中毒により4時40分に亡くなった。

 人間国宝八代目三津五郎の急死は、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず例に挙げられるようになるほどの大事件だった。この事件は、危険を承知の上で毒性の高い肝を実に四人前も食らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っているはずの板前の包丁捌きがいけなかったのかで、従前にはなかった大論争を引き起こしたことでも名高い。法廷では、「もう一皿、もう一皿」とせがむ三津五郎に板前が渋々料理を出したことが争点となった。当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったが、結局この事件では「渋った」板前が調理を「しくじった」ことに変わりはないとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出て、世間を驚かせている。

 1975年1月16日死去(享年68)





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