ムハンマド・ナジーブッラー



ムハンマド・ナジーブッラー(Mohammad Najibullah 1947年8月6日生)
 [アフガニスタン・政治家]


 パシュトゥーン系のギルザイ部族連合アフマザイ部族出身で、部族長の孫としてカーブルで生まれた。ナビブッラー高校を卒業した後、カブール大学で医学を学んだ。1965年には共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党(PDPA)に入党し、パルチャム派に属する。政治活動に携わりながら、1975年に大学を卒業した。1977年には党の中央委員会に入り、幹部となった。

 その後、1978年にPDPAによるムハンマド・ダーウード政権打倒のクーデターが成功したが、PDPA内はハルク派とパルチャム派に分かれており、このクーデターで支配権を得たのはハルク派であった。ナジーブッラーは駐イランアフガニスタン大使としてテヘランに短期間赴任したが、やがて政治の世界から姿を消し、ヨーロッパに亡命した。

 1979年、ソ連のアフガン侵攻が起こると首都カブールに戻り、翌年には秘密警察KHADの長官に任命された。このナジーブッラーの下で、数万人に及ぶアフガン国民がKHADにより逮捕、拷問、処刑されたとされる。

 1986年5月4日、バーブラーク・カールマル革命評議会議長が失脚すると、ナジーブッラーは同議長に就任。また、1988年11月29日、ロヤ・ジルガにおいて大統領に選出された。しかし、1989年にソ連軍が撤退すると、彼自身が任命した国防相によるクーデターが発生し、独裁的政治手法を緩めるなど懐柔策をとったが、ムジャーヒディーン勢力の抵抗運動に屈服し、1992年に大統領職を辞任。カブールから逃れようとするも、ラシッド・ドスタム将軍により阻まれる。結局ナジーブッラーはカブール市内の国連事務所の庇護下に置かれた。

 しかし、1996年9月26日にイスラム原理主義勢力ターリバーンがカブールを制圧し、政権を獲得するとナジーブッラーは国連が用意した逃亡用の自動車から引きずり出され、翌27日、アフガニスタンを混迷に陥れ、神の意思に従わぬ背信者などとして局部を切り取られた上に市内を車で引きずり回され、その遺体は吊るし上げられた。側近を務めていた実弟も同時に殺害され、共に遺体を吊るされた。

 1996年9月27日死去(享年49)


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