エバ・ペロン



マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(Maria Eva Duarte de Peron 1919年5月7日生)
 [アルゼンチン・女優/政治家]


 マリア・エバ・ドゥアルテはブエノスアイレスの貧しい家庭に生まれ、田舎町フニンで育った。15歳で家出をしてブエノスアイレスに上京する。なお、高等教育は受けていない。ブエノスアイレスでは、当初は水着グラビアや広告モデルなどのモデルの仕事をしていたが、1930年代後半頃より次第にラジオドラマの声優や映画女優として活躍しはじめ、B級メロドラマ映画やラジオドラマ「エル・ムンド」に出演していた。

 1943年に、パーティーで軍事政権の副大統領兼国防大臣兼労働局長の肩書きを持つフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会う。以後、政界に強い影響力を持つペロンの愛人として過ごし、その庇護の下で、自身のラジオ放送番組によってペロンの民衆向け政治宣伝を担い、第二次世界大戦下で中立国として連合国と枢軸国の双方へ牛肉の輸出を行うことで膨大な外貨を稼いでいたものの、度重なる政変と汚職により貧富の差が大きかったアルゼンチンで、貧しく無学な労働者階級から大きな支持を得た。なお、その後使われるようになった「エビータ」の愛称は、ラジオドラマの頃から使われ始めたものである。

 第二次世界大戦終結直後の1945年10月に、中南米に強い影響力を持つアメリカの支援を受けたエドワルド・アバロス将軍によるクーデターが起き、ペロンは軍事裁判で有罪判決を受け(10月11日)刑務所に服役したが、エバはペロン支持者の指示の元、ラジオで国民に向かってペロンの釈放を呼びかける。この様な動きを受けて、支持母体の弱かったアバロスが10月21日に政権を放棄したためにペロンは釈放され、10月26日にペロンと結婚。選挙母体であるアルゼンチン労働党の支援で選挙戦を戦ったフアン・ドミンゴ・ペロンは翌1946年3月28日にアルゼンチン大統領に就任した。

 夫のフアン・ドミンゴが大統領に選出された後、ファーストレディとなったエバは、夫の地位を背景に積極的に国政に介入するようになった。正義党への支援票を増やすべく、夫の指示を受けて婦人部門を組織させた上に女性参政権を導入させ、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立した。また、ミシン、毛布、食料などを配布(その一部は敗戦による困窮状況にあった日本にも送られた)するなど、「バラマキ政策」を武器に無学なブルーカラーの労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に大きな貢献をした。

 これらのことから、特にアルゼンチン国民の多くを占めるブルーカラーの労働者階級から支持を受け、「エビータ」と愛称で呼ばれるようになり、当時のアルゼンチンで最も影響力のある人物となった。しかし、エバがばら撒いた資金は税金のみならず、労働者や企業から半ば強制的にから取り立てたで「献金」によってまかなわれていたため、アルゼンチンの経済に大きな悪影響を与えた。その他、税金から支出させた金を基にクリスチャン・ディオールなどのフランスの高級ブランドを愛好した。また、財団を利用した蓄財や汚職の疑いも受けている。さらに、下層階級出身でまともな教育も受けておらず、しかも選挙で選ばれたわけでもないのに国政に参加していたこと、経済状況も顧みずに公私混合の「バラマキ政策」を行っていたことなどから、きちんとした教育を受けた中流層以上の知識階級や富裕層、軍上層部から大きな批判を浴びた。また水着モデルで元愛人というその経歴から、「淫売」、「成り上がり」と非難を受けた。カトリック信者がその殆どを占める保守的なラテンアメリカの土壌においては、女性として政治において活動的過ぎる人物と見なす者も多かった。

 1947年6月6日より、「レインボー・ツアー」と呼ばれたヨーロッパ外遊を行い、スペインやイタリア、バチカンやイギリスなどを訪問し、スペインのフランシスコ・フランコ総統やイタリア大統領など多数の国家元首と会見した。これは、第二次世界大戦において中立国でありながら、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと親しいなど枢軸国寄りの姿勢を保ったことから大戦後にファシストの一員として見なされたペロン政権を、ヨーロッパにおいてイメージアップする大規模な広報活動を目指すものであった。なおこの際に、大戦中に蓄えた外貨をこれらの諸国にばら撒くと共に、エバに勲章を与えるように各政府に要請したほか元首や国王との公式晩さん会を開くように依頼したものの、イギリスは、選挙で選ばれたわけでもない上に、毀誉褒貶が激しかったエバとの公式晩さん会を開催することを拒否したほか、バチカンも法王との会見は行ったものの勲章を与えなかった。

 エバの人気に期待をかけたファンは、1951年頃より、エバに副大統領の地位を与えさらなる政治的権力を得ようとした。この動きに対して、政府内における彼女の影響力の増大を嫌う軍部はこれに危機感を募らせたが、直後にエバが子宮癌と診断を受けたこともあって、フアンはそのポストを与えることを断念した。

 1952年に33歳の若さで子宮癌によって死去、ブエノス・アイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。また、エバ・ペロンの墓の建立のために寄付金が集められたが、台座のみが作られただけであった。その後遺体はエンバーミング処理を施されて展示された。

 のちエバの遺体はイタリアのミラノへ持ち出され行方が分からなかったが、1971年に遺体は発掘されスペインに空輸された。その後1976年にエバの遺体はアルゼンチンに返還されブエノスアイレスのラ・レコレッタ墓地、ドアルテ家の墓に改葬された。

 1952年7月26日死去(享年33)





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