人見絹枝



人見絹枝(ひとみきぬえ 1907年1月1日生)
 [陸上競技選手]


 岡山県出身。陸上競技の万能選手として早くから頭角をあらわす。1925年、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)卒業後、京都市立第一高等女学校の体操教師として赴任する。しかし翌1926年4月、大阪毎日新聞社に入社し、陸上競技に専念。同年8月、スウェーデンのイェーテボリでの第2回国際女子競技大会に日本人としてただ一人出場し、走幅跳で5m50の世界記録で優勝。立ち幅跳びでも2m47で優勝。円盤投では32m62で2位、100ヤード走は12秒0で3位、60mで5位、250メートル走で6位。個人得点15点を挙げ国際女子スポーツ連盟のミリア会長より名誉賞を授与された。

 1928年、アムステルダムオリンピックに出場。女子800mで2分17秒6で2位入賞、日本の女子選手で初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。その後も新聞社での仕事をしながら数々の大会に出場し、7種目に世界記録を作ったが、1931年3月、過労のあまり肋膜炎で倒れ、阪大病院別館に入院。その後肺炎を併発。同年8月2日、乾酪性肺炎により24歳という若さで世を去った。アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であった。

 人見が陸上を始めた頃、国内での女子陸上への偏見は厳しいものであり、周りの人々から冷たい目で見られたという。オリンピック出場が決まると人見の実家に「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」「日本女性の個性を破壊する」などといった文面の書簡が送られて来ていたという。それに対して人見は女子陸上競技に関する記事にて「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける しかし私の後から生まれてくる若い選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない」と書いている。1924年、二階堂体操塾に入学した年の身長は五尺六寸(約170cm)、体重は十五貫(約56kg)で、当時の日本人女性としては極めて大柄な体格であり、一部のメディアが「人見絹枝男性説」の真贋を記事にするほどであった。

 1931年8月2日死去(享年24)





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