猫田勝敏



猫田勝敏(ねこだかつとし 1944年2月1日生)
 [バレーボール選手]


 広島県生まれ。小学校時に、バレーボールを始める。広島市立安佐中学校時代では、9人制でセンターを務めていた。崇徳高校に進み、当時の監督の稲葉正文に、セッターとしての素質を見出される。1959年の1年生時に、国体高校男子で優勝を果たす。

 1962年、高校卒業後、地元の日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業広島支店)に入社。専売広島男子排球部(現JTサンダーズ)に入部した。直後に、当時の全日本男子監督、松平康隆の目にとまり、同年12月、18歳で初めて全日本に選出される。

 1964年、20歳で東京オリンピックに出場し、銅メダルを獲得する。これ以降、猫田は全日本の正セッターとして不動の地位を築いていった。1968年、再び松平監督の下で、メキシコオリンピックで銀メダルを獲得。1971年9月、翌年にミュンヘンオリンピックが迫っていた中、試合中に西本哲雄と接触し右腕複雑骨折をしてしまう。オリンピック出場が危ぶまれていたが、約8ヶ月のリハビリ生活の末に、オリンピック開幕2ヶ月前の1972年6月、NHK杯で試合復帰を果たした。

 そして同年8月、ミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた。1976年のモントリオールオリンピックでは日本選手団の旗手も務め、競技では4位入賞を果たした。1980年、ブルガリアで開催されたモスクワオリンピック最終予選を最後に、現役を引退。長年のバレーボール界に尽くした功労を賞されて、同年6月、日本バレーボール協会より「バレーボール栄誉選手賞」を受賞した。

 引退して直ぐに専売広島の監督に就任し日本リーグから采配を振るっていたが、1981年に胃癌に蝕まれていることが発覚。1983年9月4日、病魔には勝てず39歳の若さでこの世を去った。

 努力家であり人格者でもあり、生涯をバレーボールに費やした。奇策「天井サーブ」を編み出したことでも知られる。練習、合宿、遠征、試合の連続で家族を顧みることも出来なかったが、それを思ってか胃癌に侵された際の闘病中に「かあちゃん、すまん」という言葉を残した。幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。最期の言葉は「後1本・・・、後1本・・・」であったという。

 1989年、偉業を記念して猫田記念体育館が広島市に完成した。2001年には国際バレーボール連盟の「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」を受賞した。

 1983年9月4日死去(享年39)





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