石川啄木



石川啄木(いしかわたくぼく 本名:石川一 1886年2月20日生)
 [歌人/詩人]


 岩手県生まれ。曹洞宗日照山常光寺の住職、石川一禎と妻カツの長男として生まれる。中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合う。『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、文学への志を抱く。

 与謝野鉄幹の知遇を得て1905年、詩集『あこがれ』を出版し、1910年に歌集『一握の砂』を刊行。同年の大逆事件を契機に社会主義思想に目覚めたが、1911年12月に腹膜炎と肺結核を患い、翌1912年4月13日、肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水に看取られている。妻・節子も1913年5月5日に肺結核で死去している。

 啄木は、早くから詩作で才能を示したものの、一生貧困から抜け出せなかった。後に転じた短歌の世界での評価が死後に高まったが、詠まれた歌は悲哀に満ちたものが多く、現実を変えられないことの代償行為として歌を詠んだともいわれている。『一握の砂』『悲しき玩具』の二冊の歌集で、一首三行書きという形式と日常生活から生まれる感情を素直に吐露した作風は、当時の歌壇に新風を吹き込むものと評価されるが、その矢先の死であった。貧しさを克服しようと渡った北海道でも、また純粋に文学に親しもうと上京してからも、啄木は常に借金まみれだった。確かに貧困の原因は父親の失職にあったが、啄木としては上京後、朝日新聞社に職を得て、定期収入のあった時代もある。しかし、それでもお金が足りず、友人たちに自殺をほのめかしたり、治療代もないから座して死を待つだけだなどと泣き落としの手紙を書いて借金の申し込みをしていた。だが現実には、歌集を出版してもそれほど売れたわけでもなく、返済どころか、さらに借金を重ねていくのだが、貸した友人たちのほうも返済に期待していた節はない。もともと啄木の手紙の書き方も、借金を直接に表現するのではなく、「生活の窮状を察してほしい」というような婉曲表現に終始していたため、友人たちもカンパするような気分でお金を渡していたようである。ただ、その借金の記録は克明に残しており、いずれ人気が出て文筆生活で一財産築けることを信じ、その日が来たら清算するつもりだったとも受け取れる。

 1912年4月13日死去(享年26)


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