高木永二


高木永二

高木永二(たかぎえいじ 本名:高木英二 1896年12月28日生)
 [俳優]


 兵庫県生まれ。東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制・早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する。同学予科を終了後の1916年、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年に帰国する。1920年、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」に勤務したが、1921年、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める。

 関東大震災後の1924年4月、日活京都撮影所第二部に移籍、同年5月1日に公開された溝口健二監督の『塵境』、同年6月20日に公開された同じく『七面鳥の行衛』で主演クラスの助演に抜擢され、注目を浴びる。1927年7月22日に公開された木藤茂監督の『稲妻』では、高木が書いた原作が採用され、主演もこなした。時代劇にも出演し、伊藤大輔の『新版大岡政談』シリーズ(1928年)では蒲生泰軒を演じた。1928年、女優の山下澄子と結婚する。

 1932年2月に奈良に設立された富国映画に移籍、『情熱の波止場』に主演し、『女性ヴァラエテイ』で監督としてデビューしたが、同社が同年6月に解散したため、日活太秦撮影所に再入社、時代劇俳優に完全に転向する。1933年1月14日に公開された片岡千恵蔵プロダクション製作、伊丹万作監督の『刺青奇偶』では、片岡千恵蔵を相手に最後の賭博勝負をかける鮫の政五郎役、同年6月15日に公開された山中貞雄監督の『盤嶽の一生』では地主佐兵衛役を演じ、健在ぶりを示したという。1934年には、東京に新設された現代劇のスタジオである日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する。

 満45歳になり、1942年3月7日に公開された田口哲監督の『将軍と参謀と兵』を最後に、出演記録が途絶える。第二次世界大戦にあたっての戦時統合によって、同撮影所は大映東京撮影所となるが、戦中戦後の高木の消息はわからない。


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